先生とは何かを考える

私は大学の研究室で、ある教員から実験の手技や論文のまとめ方など研究者としての必要な知識を学んでいる。彼は授業がうまくて、人に教えるのも上手だと自分で思っている。確かに整ったスライドを作るのはうまいし、授業も簡潔だ。また実験の手つきもそれなりに良い。だが私は彼のことを先生だと思ったことはない。なぜなら、彼から学問や人生に対する姿勢や価値観を学んでいないからだ。そもそも見習えるような点がない。頻繁に生徒の前で、上司である教授を「実験手法が時代遅れで無能だ」とか[脳に欠陥があるんじゃないか」とか馬鹿にしたり、生徒の成績の良し悪しで、生徒の人間性までを含めて優劣で評価をするような発言を繰り返している。見習えるはずもなく、良くて反面教師だ。

 

私にとって先生とは、調べればわかることや経験を積めばできることを教えてくれる人ではない。それはバイトリーダーと変わらない。既存の知識を噛み砕いて生徒に紹介することは、先生の業務の一つであろうが、それは本業ではない。先生の本分は、学問を通して人生の向き合い方を教えることだ。それが先に生きるということ。要するに愛とは何かを伝えることだ。伝達手段は言葉だけに限らない。生徒は先生の振る舞いをよく見ているものだ。愛というと大げさかもしれないが、一人の先生との出会いが大きく人生を方向づけることが多々あるので馬鹿にならない。

 

昨今、非常に分かりやすい解説書がたくさん書店に並んでいる。動画編集技術や編集ソフトの機能向上によって、ネット上には非常に分かりやすい解説動画が氾濫している。知識は学校の専売特許ではなくなったのだ。これは非常にいいことだと思う。またTEDのようなプレゼン能力の重要性が人口に膾炙し、物事をうまく伝えることを皆意識するようになった。それも素晴らしいことだ。だが、私は大学に、先生にそんなことは求めていない。学問はそもそも難解なものだし、先生というのは自分の好きなことについて好き勝手に話すものだ。お勉強したいなら、家でmedu4でもシコシコ見てろ。大学は専門学校ではないのだ。私が先生に求めるものは、一度聞くと、それに一生縛られるぐらい強力で危険なブツだ。ブチ込めるもんならやってみろと言いたい。