渡る世間に鬼はなし

幼い頃、祖父母に連れられ、よく天王寺動物園に行ったものだ。電車を乗り継いで行くのでちょっとした社会見学の意味もあった。切符の買い方や電車での過ごし方、地図の読み方など。その中でもとくに印象に残っているのはホームレスのことである。

 

現在ではあまり見かけないが、当時天王寺駅周辺には多くのホームレスの方々が路上生活をされていた。昼間からカップ酒片手に無気力にベンチで寝転る人やトング片手に空き缶を拾う人。ブルーシートで作られたテント小屋。私は地元では見かけないそれらの光景に純粋な興味を持っていた。

 

すると祖父にあまりジロジロ見ないよう注意された。続けて祖父は小学生にも満たぬ年の私にホームレスがいかなる人間たちか、なぜ目を向けてはいけないかを教えた。つまりこういった具合に。ホームレスたちは努力を怠り、仕事にもつけず、住む家もない、言わばろくでもない人間である。世の中にはそういった人たちが存在し、そしてそういった人間に目を合わせるとお金をせがまれたりとろくなことがない、と。さらに祖父はこう続けた。そうなりたくなければ、お前たちは一生懸命に勉強して、いい学校に行って、いい仕事に就き、そしてたくさん働いてお金を稼ぐのだ、と。

 

それ以降、私の中では「天王寺動物園=ホームレスがいる怖いところ」というイメージが確立された。同時にホームレスの方々には、怖いけれどじっくりと見てみたい、そんなスリルを与えてくれる印象をもってしまった。失礼なことだが、当時の私は動物園の中でライオンを観察するのと同じぐらい、外の「珍獣たち」を観察することに力を注いでいた。

 

だが、大人になった今、そういった教育はまちがっていたのではないだろうかと思う。祖父母とは生きてきた環境が違う。生きてきた時間も違う。だからあまりえらそうなことは言えないが、どうも受け入れられないのである。

 

社会には様々な境遇の人がいて、自分の不遇を努力ではどうすることもできなかった人たちが一定数いる。多くの成功は本人の努力というより、環境や能力、すなわち運にほとんど左右されるというのは今では共通の認識だ。だから弱者を指さして、こうはなりたくなかったら努力しろと子供に教えることは少し乱暴な教育だと思う。むしろ弱者に対する慈しみのこころを子供と共有することのほうが大事ではないだろうか。そしてどうしてそういった人たちが社会にはうまれるのか、どのように彼らと向き合うべきなのかを考えることが大事ではないか。

 

別の話になるし今後このテーマで一つ記事を書いてみたいことだが、すべての親や祖父母が正しいことを教えれる理想的な親ではない。そして子供の中にはそのショッキングな事実にある一定の年齢で向き合うものがいる。そしてそのショックに対して僕たちはどう向き合うのがいいのかということはいまだに正しい答えがわからない。世界は混沌としてとりとめもない。そんなことをおもった次第だ。