禅について

You Tube永平寺の僧侶たちの動画を定期的に見ては自分を戒めている。定期的に。

 

仏教は宗教の一つとして数えられるが、いわゆる一神教的な教えではなく、普遍的に存在する真理に気がつくことを目標としている。そういった意味では哲学に近い。

 

現在では葬式のときにやってくる坊さんのきな臭いイメージが強い。鎌倉以降、民衆による浄土信仰と為政者による政治利用が相まって広まった名残である。日本史を勉強すると坊さんはよく暴れている。比叡山の僧兵とか一向一揆とか。ある種一神教的な怖さがある。悟りを開くために修行しているはずなのになぜ戦に参加するのだろうと不思議に思ったものだ。誤解を恐れず書くと、おそらくそれらは仏教のようなものでしかない。南無阿弥陀仏と唱えることで極楽浄土に行けると本気で思う人は今の時代殆ど居ないだろう。

 

現在の私の認識では、禅は本来の仏教の目的に合致しているように思える。禅は実践に重きを置く。仏が悟りを開いたのは菩提樹の樹の下で禅を組んだことによるのだから、悟りの境地に近づくには言葉で学ぶより実際坐禅を組んだほうが良いという理屈だ。至極、理論的で現実的なのが現代においても世界中から興味を持たれる理由だろう。死後の世界とかにもあまり言及していないようだ。パーソナルなトレーニングのようなものだ。

医学書高い問題

生化学の勉強をしている。レジュメだけ覚えれば試験は突破できるらしいが、やはり行間が抜けているのでいまいち全体像が見えない。ハーパー生化学という本を買おうと思ったが正規の値段では9000円近くするので手が出ない。そのため、アマゾンの中古で150円で一つ前の版の本を買った。自炊をしている連中もいてネット上でも出回っているみたいだが紙で読みたいのだ。最新版と比べて三年前のものなので、すこし怖いが、おそらく初学者が躓くレベル、すなわち根本的な内容のアップグレードはないのではないかと思う。だからまあいいかとポチった。友人が最新版を持っているので、届いたら内容を比較してみたい。

 

宮崎奕保禅師

永平寺貫首であったお方。口だけではなく、黙って真理の実行することに重きを置かれ、自ら模範となり生涯修行に励まれた。しかも一生不犯を通されたという。

 

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意志が強いという言い方は語弊があるかもしれないが、師のように「意志が強い」人は実際にいる。決められたルールを守るのはもちろん、自らを引き締めて生活できる人。自分が欲まみれだから、そういう人間は憧れる。気力の問題ではなく、なにか生まれ持った素質のような物があるのではないだろうか。

 

戒律を守り、日々正しい生活を送る修行僧はどういう脳の構造をしているのだろう。さらに子孫を残すことよりも守りたいと思える仏の教えとはいったどれほど素晴らしいものなのだろう。師には何が見えていたのだろうか。理解できないから純粋に知りたいと思った。

 

以下は覚えておきたい言葉だと思ったのでメモ。

 

前後際断:前後、すなわち過去と未来を断ち切り、いまこの瞬間を生きること。

身心一如:心と身体は一つであること

只管打坐:「只管(しかん)」は、ひたすら。 「打座(たざ)」は、座ること、座禅を組むこと

悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思つて居たのは間違ひで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であつた。 『病牀六尺』 正岡子規

試験勉強辛い

12月は毎週試験だ。

 

試験地獄も佳境を迎えた。

 

明日の試験はジュメを1000枚ほど覚える必要がある。

 

しかも細かく聞いてくる。流石に辛い。。。

 

絶対なんとしてもやらねばならんときは、立って勉強することにした。

 

今日は徹夜だ。

 

 

「可愛くてごめん」という曲

流行りの歌は世相を表す。歌は世間の好みという自然選択が働くことで流行るものと流行らないものに分かれるからだ。可愛くてごめんという曲を聞いたときに違和感を覚えた。この違和感はなんだろう。少し前に「うっせぇわ」という曲が流行ったときと似た違和感だ。歌が世相を表すならば、それは社会に対する違和感ということになる。世間の目を気にせず自分の好みを通すのは素晴らしいことだよね、という内容の歌だが別に今も昔もある話だ。ではなぜ違和感を感じるのか。自己完結的だからだと思う。基本的に他人との諍いを避けて、頭の中ではボロカスにこき下ろして「自己肯定感」を上げる。「あー、すっきりしたし好きなYouTuberでも見よ♪」と、小さな殻に閉じこもって細分化されたコンテンツにお金をかける。わたしが良ければそれでいい。確かにみんなそんなところはあるが、それを歌にされると情緒も糞もないといったところか。

 

 

賢者になりたい

試験勉強で忙しい。そんなときほど頭が活性化して、試験とは関係ないことが思いつくものだ。無駄にはてなを書きたくなる。私は頭が悪い。処理能力が低い。しかし興味関心は誰よりも強い。頭は良くないのに、世の中のことをよく理解したい、真理に到達したいという欲求が強いのだ。試験勉強はある一つのことが理解でないと進まない。普通ならば、まあ覚えりゃ点になるしいいか、ということも意地でも覚えたくない。なにか腑に落ちる理解があるはずだと。語源を探したり歴史を辿ったりする。でも真理に到達することはできない。暗記要素の多い医学部の勉強でも、なんで?を掘り下げると生物学→化学→物理学へと突き詰まっていく。そして沼にハマっていく。効率よく点数をとることに興味があまりない。時間配分や要領とは無縁だ。成果が挙げられずに、時間だけが浪費されていく。さらに医学のみならず社会で何が起こっているかにたいする興味も捨てられない。薄っぺらなニュースでは満足できない。法や政治経済、はたまた文学にまで手を伸ばしたくなる。小難しいYou Tube動画を探り、読みもしない書籍を買い込む。

 

どうして私はこうも割り切れない人間なのだろうか。疎遠となった親友一人を除き、まわりを見渡してもそんな人は居ない。インテリの集まる大学でもいない。テストの点数がどうだとかの話ばかりだ。世の中の真理を知るということはこうも苦しいものなのか。IQ的な頭の良さと、興味関心好奇心は全く関係しないところが辛いものである。

 

私一人が勉強しても社会に対した影響はない。だからほぼ無駄だ。でも世の中がどういう方向に向かっていようが、これが正しいと言える人間でありたい。今はなにも根拠がない。何も知らないから感覚で言っている。それが嫌だ。先人の考えを引用したい。それらを自分でまとめて、これからの時代を読みたい。そのためには文理を問わずに、さまざまな分野に精通している賢者、哲人になる必要がある。

 

生活もしていかなければならない。働かなければならない。ますます時間はなくなる。仕事と関係のないことを勉強している暇はより一層なくなる。民主主義はそんな人達で回っているから不思議だ。どんな医師になって、どう生きて行くのか。どうやって勉強し続ける時間を捻出するのか。ある意味楽しみだ。家族や身近な仲間を大切に、強くこの世の中を生きていきたい。そのためには勉強して賢くなりたい。

しずちゃん結婚に関する失礼な記事

news.yahoo.co.jp

人の尊厳を傷つけるめちゃくちゃ失礼な記事だ。

しずちゃん佐藤健のようなイケメンと結婚した!?→な~んだ勘違いか、ガハハってか?本人がどう思っているか知らんが、こういう糞みたいな日本の笑いは滅びた方がいい。